半村良の「石の血脈」はすさまじい傑作 伝説とエロスと嘘が織りなす最高の娯楽作

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古いだと? 刊行して50年経とうが、面白い作品は面白いんだ!

オレが石の血脈を初めて読んだのは、まだ中学生の頃だった。圧倒的な話しの展開、そして濃厚なエロスに、オレは圧倒されっ放し、興奮しっ放しだったよ。全くもって先の展開が読めない筋書き。一見関連のない事件が次々と起こり、それらが徐々に繋がってゆき、最後に全てがピシッと一部の狂いも無く合わさり、まるで巨大なピラミッドが出来上がるようなプロットにぼう然とするばかりであった。

そして勿論、性ホルモンが過剰に放出され始めた男子にとっては、書店で見るエロ雑誌なんか比較にもならない、濃厚なエロスの世界にも欲情しっ放しだった。これはSF小説なのか? それともエロ小説なのか? エロF小説か? いやSFとエロ小説を混ぜて、深遠なる人間の生きる意味を問うテーマで割れば、石の血脈が出来上がるのだ。半村良と云う作家は、最初から巨人だったのだ。

石の血脈は半村良氏の長編デビュー作

石の血脈は半村良さんの書き下ろし長編作品で、早川書房から1971年に出版された。半村良さんにとって、実質的なデビュー作のようなものだ。

半村良さんは1962年に短編小説「収穫」がハヤカワ・SFコンテストに入選して作家として活動を始める。だが何故か60年代は短編小説を数本SFマガジンで発表する程度だったと言う。その頃のSFマガジンの編集長の福島正実氏とそりが合わなかった事がこの沈黙の原因だともオレは聞いている。
そしてこの石の血脈の刊行から、半村良さんの怒濤の執筆活躍が始まる。

それにしても驚くのは、初めての長編作品なのにも関わらず、この作品は素晴らしいほどの完成度を持っている。話しの構成、登場人物の描写、ストーリーの奇想天外な展開、描き込まれた歴史的事実と嘘。それら全てがもう完璧と云っていいほどの域に高められている。

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目眩くストーリー展開

この小説は、のんきな泥棒の事件から始まる。廃工場から廃電線を盗みに来たしょぼいコソ泥が、たまたま見てはいけないモノを見て殺される。それは100mを6.3秒で走る獣人だった。

そして唐突に場面は変わり、将来を約束されたようなエリート建築家の妻が、不貞を臭わせて謎の失踪をしてしまう。そしてお次はアトランティスのモノと言われるクロノスの壺が行方不明になるものの、あっけなく見つかる。さらに現代に蘇ったイスラムの暗殺教団の影がちらつき、巨石文明の暗い陰が現代に覆いかぶさる。そして話は大企業エリート達の秘密の活動と、その背後に見え隠れする謎の男女、現代に蘇った吸血鬼……。

そんな雑多なエピソードが次々と展開し、やがて一つの筋に収束して行く。古代から続く謎の血はいったい20世紀の現代に何をしようと云うのか?

この小説はあまりにも面白過ぎるので、筋に関わる事はこれ以上は書かないでおこう。本心では書きたくて仕方がないのだが、あれがこうなって、これがああなって、最後にはなんと男を求め彷徨い歩く吸血鬼が’、、、、、。おっとネタバレはこの小説では厳禁だ。

ともかくこれだけは言っておく。「迷う必要がない。ただ黙ってこの本を買って、読みさえすればいいんだ」。読めば分かる、この小説の面白さ、恐ろしさを。めくるめく官能の世界が、人の欲望が、権力が、人間の命をもて遊び、そして翻弄されれてゆくさまを味わうのだ。

大人になって読み直したからこそ氣がつく事

オレはこの小説を初めて読んだのは、中学生の頃だったと最初に書いた。その後ずーっと読み直そうと思っていたのだが、40年も経ってしまった。初めて読んでから40年後に読み直して、どうだったか? 答えは、子どもの頃よりも、より夢中になり、そして小説世界にどっぷりと漬かってしまった。どんなオチが待っているのかをはっきりと覚えているというのに、いったいこの先はどうなる? と、どうしてこんなにもワクワクとしてしまうんだ? 

長く生きていればより経験を積み、知識も増える。だから子どもの頃よりも読み進めるのが楽になる。それ故、物語の世界に存分に脳みそが漬かりこんでしまう。こんなあり得ない話しの世界だというのに、52歳のオジさんがその世界観を信じてしまいそうになる。それぐらい半村さんの筆力は強烈なのだ。嘘だと分かっているのに、信じてしまうオレがそこにいる。吸血鬼が現代の東京に跳梁し、次々と男をくわえ込み、しして犠牲者は血を抜かれ、人知れず何処かのビルの地下に埋葬されてしまう。そんな事が起きる訳無いだろう。だが、半村さんの筆にかかれば、そんな事件がが実際に、この現代にあるんじゃないか、と信じてしまうのだ。

これは半村さんの実質的なデビュー作だというのに、これほどの質の作品世界を作り上げてしまうのが半村さんの恐ろしいところだ。最近ドラマ「相棒」の脚本で注目を浴びている作家の、書き下ろし小説を読んだ。スジはなかなか良い。人物描写も魅力的だ。プロットも悪くない。ワクワクして読まされる。流石「相棒」の1級の脚本家だ。だが、あまりにも話しを作り込み過ぎている。複雑な話のスジが破綻しないように、一生懸命つじつまを合せている作為が、読んでいてバレバレなのだ。小説世界が破綻しないようにしゃにむに、こんなエピソードをひねくり出したんだな、という事がはっきりと分かってしまう。これじゃ作品世界に没頭出来ない。

ところが石の血脈では、そんな作為なんかみじんも感じさせないのだ。オレは読書をしている時、脳裏にその世界が映画の様に浮かんで見えている。オレは小説の世界に入り切って読んでいるのだ。だが下手な作品だと、映像が浮かんでこない。半村さんの小説の場合は、ずーっとリアルな映像が頭の中に投影され、オレは現実から切り離されて没頭してしまうのだ。半村さんの嘘つきぶりは筋金入りで、小説家にならなければ彼はきっととんでもない犯罪者になっていただろうと思う。

Philip K Dickの作品と同じテーマが根底に流れている

今回石の血脈を読み直して、一つ氣が付いた事があった。中学生のオレには全く気がつかなかった事だ。それはこの作品の根底に流れている作者の情念だ。半村さんはただ面白い話を書いただけじゃないのだ。その作品に込めた情念があったればこそ、その描いた世界がより真実味をまし、読者に感動を与えるのだと思う。

オレがこの小説から感じ取った情念とは、「何をもって人を人たらしめているのだろう」と言う事だ。これこそこの小説の魂とも言えるとオレは思う。人は人に生まれてきたから人になるんじゃない。人らしい行動をするからこそ、人になれるのだ。そうでなければ、まるで魂の無い木偶人形、アンドロイドと何も変わらない。

そう考えると、同じSF作家のPhilip K Dickの一連の作品との共通性が頭に浮かんでくる。オレもこのブログで散々Philの作品については論じてきた。Philの小説の根底には「何が人間を人間足らしめているのだろう」という思想が流れている。それは思いやりであり、他者を気づかう心遣いだったりする。人とアンドロイド(非人間)は何が決定的に違うのだろうか? 人間なのに、人とは呼べない人間もいるんじゃないのか? と言う事がPhilの小説の根底には流れている。それはこの石の血脈にも流れている、目に見えない情念だ。

石の血脈の中でも最後に●●が●●されるシーンで言うセリフがある。その言葉こそ半村さんがこの小説で描きたかった一番の事なんじゃないかなと思う。組織が、権力が、人を超えてどんどんと大きく力をつけてくる。そしてそうした権力に近づいた人間は、そうした力に取り込まれて、どんどんと人間味が失われて行く。

そうした権力や資本家の非人間性を描く事で、半村さんは人間とは何かと言う事を小説の中で透かしのように浮き上がらせているのだ。これはPhilの小説にも力強く流れているテーマだ。奇しくも同じSFというジャンルの小説家、日本とアメリカと国は違えども、同じ問いが作品の根底に流れている事にオレは氣がついた。SFとはただ単に想像の世界を描いている訳じゃないのだ。何が人を人たらしめているのだろうか? という深いテーマが流れているからこそ、長らく人に愛される作品になるのだとオレは思う。

そうしたテーマが流れていないSFは、単なる科学どんちゃん騒ぎに過ぎない。なにかというと科学科学とほざく科学馬鹿と何が違う? それが人間とアンドロイドの違いなのだ。

スマートフォンもインターネットも無い時代に書かれた古びた小説が、本当に面白いのかだって? 小説のリアリティーは登場人物が出くわした状況に、どう反応するかを描くことにあるんだよ。だから50年前のこの作品は、今読んでもちっとも古びて見えない。それはそこに人間の愚かさ、素晴らしさ、悲しさ、悦びが描かれているからなんだよ。そうした物語は、時代を超えて永遠に読み継がれる命がある。たとえ蘇るのに3000年の時が必要だとしても。

うーむ、こんな傑作がkindleでしか読めないなんて。

これ以降に石の血脈の結末が書かれているので、これから読もうと思っている人は絶対に読まないで下さい。がっかりします。

PS:石の血脈の最後にイコノクラスムが起こる。狼人間になった伊丹と次郎は、完全石化する直前の祥子の叫び「イコノクラスム」を合図に、石化したケルビムを次々と破壊してゆく。イコノクラスムとはイスラムの言葉で偶像破壊だ。伊丹は石化してゆく彼女に愛の言葉だといって、「イコノクラスム」と最後に叫ばせると云う仕掛けを仕込む。狼になった伊丹と次郎は「イコノクラスム」を合図に、ケルビムを破壊するように自己催眠をかけていたのだ。

半村良さんは精密に緻密に筋を積み上げ、せっかく永遠の命を得ようとした1800人のその殆ど全てを破壊尽くしてしまう。物語の最後の最後で、これまで語ってきた全てごわさんにしてしまったのだ。子どもの時には、何故せっかくの永遠の命を得ようとした者たちを破壊してしまったのだろうと、もったいなく思ったのを覚えている。

だが今は違う。長年半村良さんの作品を読み続けてきたものとして、彼の作品の根底に流れているものに氣がついてしまった半村さんは権力者、エリートと言うものに対する反発が強い。いやそうした者たちの非人間性に非常に強い嫌悪を感じているのだ。

ケルビムになった者たちは、まさにこの社会のエリートたちばかりだ。市井の人間はそんな永遠の命を得る機会など与えられない。それどころか家族など累のない人間達は、そうしたエリートたちの必要な栄養素として、容赦なく血を抜かれて殺されてしまう。エリートに奉仕する奴隷達と云う位置づけだ。

そんなエリートの世界を描きながら半村さんは、最後の最後で市井の人間からの支配者階級への復讐をさせて、全てを終らせてしまう。そんな苦い物語の終らせ方をした理由は、やはり権力、エリートと言う存在に対する嫌悪感なんだとオレは思う。その姿勢は彼のどの作品にも濃く薄く滲んでいる。戦国自衛隊では、後半に天皇制というものに対する批判が描かれている。

かって半村さんは何かエッセイで、オレは人を見下すような連中を、下から軽蔑してやるんだというような事を言っていた。この石の血脈の最後は、こうした彼の反権力の姿勢が非常に強く表れている好例だと思う。


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