ロックスターと云う虚像 人々が求めているのは虚像
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それは虚像
新聞を見ていて、とある広告に目が止まった。「●●の名曲がダンスで炸裂!」。そこには数年前に、愛と感動盛りまくり伝記?映画が大ヒットしたロックバンドの、下駄髭男のステージングを真似したダンサーの写真が掲載されていた。人目であのボーカルだと分かるそのポージング。だがオレには異常な違和感を覚えた。一目でそうと分かるものの、これはあの下駄髭男じゃない。
似てはいるが、似て非なるもの。本物よりキレイに作り上げられて、盛りまくられた別モノだ。近々そのバンドは別のボーカルを連れて、元のバンド名で来日するらしい。オレに言わせれば何だか、AIで蘇った国民的歌手が頭に浮かぶ。山下達郎の云う通りこれは冒涜じゃないのか? マスメディアか何か知らないが、作り上げた虚像はどんどんと大きくなり、そして暴走する。もう誰にも止められない。そこまでして金もうけしたいのか?
ジョンにプリンスにマイケル、彼らはみんな生きている時から、マスメディアによって勝手な虚像を作り上げられたアーティストたちだ。そしてその虚像を奴らは、アーティスト本人に押し付けて、どんどんと大きな存在に祭り上げてゆく。その結果当の本人は実在しない自分と、本当の自分との乖離に苦しめられた事だろうと思う。更に悪い事に、その虚像は死んでからも尚大きく育てられ、あたかも聖人のように更に高見に祭り上げられる。
あなたが愛しているのはアーティストそのものじゃなく、作り上げられた虚像だ
憂鬱な12月8日
毎年12月は憂鬱な季節だ。毎年同じ年末進行の繰返しにうんざりしていると言う事もある。それ以外の別の理由は12月8日だ。その日の前後には決まって、あのクソ甘ったるい歌がそちこちから流れてくる。氣にしなきゃ良いだけの話だが、馴染の曲なので反応してしまう。あの歌とは誰もが知る、愛と平和の聖者様の歌ですよ。
John Lennonも勿論そういう虚像に苦しめられた1人だとオレは思っている。The Beatlesという巨大すぎる虚像に。そのバンドは彼が死ぬまで、いや死後までつきまとう。何をしても常にThe Beatesの元メンバーJohn様ってわけだ。何をしてもThe BeatlesのJohn様があれをした、これをしたと世界中に報道される。チンポをだしてもThe BeatlesのJohn様がおチンポをおだしになられましただ。
オレは彼の才能のピークは60年代中盤だと思っている。それ以降彼の作る曲はどれもコレモ似たり寄ったりのつまらない曲ばかり。だけども世間は何を書いてもJohnの最高傑作! と、どんなカスみたいな作品でも大絶賛される。そんな事態に嫌気して、小野洋子との訳の分からない実験作品を作ったんじゃないのかな。世間を煙に巻いたつもりだったのに、そんな作品はあたかも無かったかのように無視される。虚像にはそんな挑発的な作品は必要が無いのだ。2人の素っ裸のジャケットは、そういう彼らを虚像に持ち上げる奴らに対する挑戦だ。
John Lennonはただ自由になりたかった人なんだろうと思う。
愛と平和の聖者John Lennon
彼は愛と平和の聖者なんてクソみたいに祭り上げられて、うんざりだったろう? そんな虚像に嫌気をさしたからこそ、そうした世界に背中を向け、主夫業に専念したのでは無いのか。だが世間が作り出した虚像は、Johnの不在の間も大きく育って行った。虚像は本人なんか必要としないのだ。虚像に彼は銃殺される。これが本当の愛と平和の聖者の誕生という訳だ。
本当のJohnっていうのは、ジャンキーで、イカレポンチの単なるロックンローラーじゃないか。そうSyd Viciousと何ら変わらない、イカレポンチがJohnの本当の姿だとオレは思っている。アルバムジャケットでチンポを曝すなんて、まともな男だと思うか? そんな大馬鹿野郎Johnにオレは拍手喝采をしたくなる。愛すべき大馬鹿野郎、Syd Lennonだ。だからこそ愛と平和の聖者の虚像に、オレはつばを吐きかけたくなるのだ。
■ John Lennon – Slipping Sliding & imagine – April 18 1975
John Lennonというイカレポンチの変人のライブを堪能してくれ
虚像を崇めるオレ達
来日しては多数のグルーピーを取っ換え引っ換え犯しまくって、数多くのハーフを日本に残していると云われるクソバンド。オレが子どものころに聞いた噂だ。今じゃそんな話しの一つも出てこないが。そんなバンドが今じゃ愛と感動のロック・ショーって訳だ。話を盛りすぎだろうよとオレは思う。
少年誌の人気狂犬刑事漫画でも、グルーピーを食いまくりロックバンドが、狂犬刑事にぶちのめされると云う回があったのを今でも覚えている。まあ、そのバンドの絵はSex Pistolsにしか見えなかったが。モデルはきっとあのバンドだ。
そんな事を考えていたら、某宗教の聖者を思い出してしまった。強欲のクソババアが今じゃ聖者に列せられていると言う。何でも生きている時に「奇跡」を起したから聖者なんだそうだ。誰かの都合で、あの婆さんは奇跡を起こした事になったらしい。死んだらなんでも盛り放題だ。そのうち死んだ人を蘇らせるなんて話しもでっち上げられるんだろう。
2000年以上昔に居たとされる聖者たちだって同じ事じゃないかってオレは思う。今伝えられている姿は盛られまくられた虚像じゃないのか? その時々の権力者の思惑で、いいように利用され作り上げられた姿を、今オレ達は崇めている訳だ。
というのも原始仏典(スッタニパータやダンマパダ)を読んでいると、実に素朴な、生き生きとしたゴータマ・ブッダの姿がその文章からにじみ出てくる。素朴で飾らない、えらぶる事の無い、暖かく、落ち着き慈愛に満ちた叡知が、ゴータマ・ブッダの言葉からから浮かび上がってくる。そんな事は中国語に翻訳された仏典(いわゆるお経)からは全く見えてこない事だ。
とあるロッカーは死んでたかだが20年でこの盛りようだ、古代のこうした聖者はどれだけ盛られている事だろうかと思う。
そんな訳で、私達は実際には存在しない虚像を崇め奉っているのかも知れない。私達が崇めているのは、同じ名前の全くの別人なのかも知れない。
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