フィリップ・K・ディックの処女作「市に虎声あらん」はフィル版のライ麦畑でつかまえて

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死後40年近く経つのに、本屋に新作が並ぶPhilip K Dickという作家

 たまに本屋のSFコーナーを覗くと驚く事がある。死後40年近く経つというのに、Philip K Dickの新作が平積みになって置いてある事があるのだ。最近の若い作家の新作の隣に、堂々とPhilの新訳が展示されている。いや新訳どころか、翻訳そのままなのに新装丁で、新作のような顔をして並べられている。オレのように古くからのファンでも、おや、新作がでたのか? と思わず手に取ってしまう。

 時たま見た事のない書名の本が置いてあって、でもタイトルの下に小さく「XXX改題」なんて書いてある。既にもっている本なのに、あやうくレジに持って行ってしまう所だ。紛らわしい。でもちょっと、そんな事が嬉しかったりする。

 最近の書店じゃ売れスジしか置いていない事が殆どなという事を考えると、これはPhilの本が未だに売れ続けていると云う証拠なんだろう。

Philip K Dickの処女作が、翻訳、出版される

 「市に虎声あらん」というこれまで聞いた事の無い小説が、がある日Philの作品コーナーに並んでいるのを見つけた。きっとこれも何かの作品の改題なんだろうと思って手に取ってみたら、なんとこれはPhilの幻の処女作だという。それが死後40年近くも経ってから初刊行された。まだ彼の作品に未訳があった事に驚く。

 物語のあらすじとしては、1950年代のアメリカが舞台で、社会に不満を抱くTV販売店のマネージャーが主人公の主流小説。黒人カルト教祖が出てきたり、その教祖と白人女が同棲していたりする。主人公はそのカルト教祖の情婦をレイプしたあげく、理由も無くボコボコに暴力振るうなど、当時としてはかなり過激な描写の作品だ。

 簡単に話しをまとめるなら、社会に憤りを持った主人公が、雇い主(古くさい言い方をするなら資本家)に反抗し、そのあげく大けがをして片目を失うものの、その犠牲により安らぎを得たような得てないようなみたいな話。黒人カルト教祖、情婦、TV屋のオーナー、カルト教祖の情婦に対する暴行、主人公の無意味な彷徨と受難と、物語の中に色々なキーワードがあり、Philがそれらになんらかの意味を持たせているのは理解出来る 。

 だが、なんせ作者の若気の至りなのか、描写が稚拙で何故主人公がそのような振舞いをしたのかがうまく伝わってこない。書評を読んでみると、ディックの重要な作品なのはわかるが、なんだか褒めないと馬鹿にされると思っているのか、変な嘘寒々しい高評価ばかり。山形浩生さんも後書きで絶賛している。が、そうかな? とオレは首をひねる。まあ日本には私小説と云うジャンルがあって、特にオチもなくだらだらと物語が続くと云う小説がある。これもそういったものだと思えば良いのかもしれない。

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翻訳者は趣味に走り過ぎたと思う

 それともう一つ、この作品がいまいち楽しめないのが翻訳。阿部重夫さんという方がこの作品を翻訳して下さった。彼は翻訳家と云うよりも、Factaの編集長と云えば判る人も多いと思う。Factaは元「選択」の編集者がそこを飛び出して作った雑誌。「選択」は定期講読のみで成り立っている変わった雑誌で、もう今はなくなってしまった噂の真相の格調が高い高級版のような雑誌だった。今でもたぶんゴミ売新聞に月に一度、「3万人の読者のための雑誌」をキャッチコピーに、定期講読の広告を掲載しているんじゃないかなと思う。

 そんな文学畑じゃない人が翻訳したからなのか、趣味に走り過ぎてやたら漢文調の古くさい言葉遣いでフィルの文章を日本語に置き換えている。その翻訳が文章を読み進める上での最大の障害で、話の流れを滞らせて、物語をよりつまらなくさせているとオレは思う。物語の内容が内容だけに、もっとそれに相応しい訳語の選択もあったんじゃないかな。

 そりゃあ日経新聞の記者から始まった物書き人生とは云え、阿部さんもきっと文学少年・青年だったのだろう。だから自分の知識・教養を、この様な翻訳に注ぎ込んだんだろうと思う。だけどもこの翻訳じゃ自己顕示欲がプンプン臭ってきてしまうんで、ちょっとなぁ。

 1950年代に書かれたから作品だから、こんな古くさい言い回しをあえて使ったのだろうか? 1950年代は明治時代じゃないぞ。翻訳の文体は作品の内容を反映して、その雰囲気を伝えてこそ価値があるとオレは思う。50年代の青春小説を、三国志でも語るみたいな固い語調を使う事の意味がオレには理解出来ない。

 訳者の趣味を翻訳に反映させたのでは、それは単なる自分の知識の自慢ひけらかしに過ぎなく、この作品の内容にはふさわしくなと思うのだが。そのため物語のテンポ、登場人物の心の情動が朧げにしか伝わってこない。それともPhilの作品に込められた、熱い思いを表現手段としてこの様な翻訳にしたのかもしれないと、想像して見る。

 青春小説を代表する作品にサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」がある。この作品も50年代初頭の小説で、翻訳者の野崎孝さんは実に青春小説らしい言葉を選んで翻訳されている。今では少し古くさくは感じるものの、未だに主人公の内面をみずみずしく伝えていると思う。

 まあ、あれこれ翻訳に対する疑問を書いて見たのだが、たぶんこんなブログなど、阿部重夫さん本人の目に触れる事は無いだろう。この翻訳には物凄い違和感を感じたのでその事だけは書き残しておきたいと思って、この文章を書いて見た。

阿部重夫さんは、どうやら筋金入りのPhilのファンの様だ=

阿部重夫さんについて調べてみると、なんと知らないだけでオレもこれまで彼の他のPhilの翻訳を手がけていた事を知る。1980年代半ばにサンリオ文庫から出版された「あなた合成します」や「ドクター・ブラッドマネー」を訳していたとは! 彼は筋金入りのPhilのファンなんだろう。

彼の訳文についてあれこれ書いてみたけれども、お会いして話をすれば一瞬で意気投合するくらいの人かも知れない。だけども、何故この様な翻訳にしてしまったのか、何故この様な文体を選んだのか、本人の解説を聞いて見たいと思う。

 それにしても早川や東京創文ではなく、平凡社という本来フィルの作品なんか扱わない出版社から出したのかという事もとても氣になる。2600円という高額な価格にしてはしょぼい装丁。この小説が翻訳された経緯も聞いて見たいものだ。

これはPhilip K Dick版の過激な「ライ麦畑でつかまえて」だ

 さて、あれこれ愚痴はここまでにして、オレなりにこの作品を総括してみる。この作品を一言で云うなら、フィリップ・K・ディック版の「ライ麦畑でつかまえて」だ。個人を抑圧する社会に対する、言葉にできないもどかしさ、いらだち、それを主人公が自己を犠牲にしてまでも抗議するといった大きな話の流れが共通している。

 それとつい最近気がついたのだが、フィルとサリンジャーに何らかのつながりがあるのではないかと思っている。その一つはこの「市に虎声あらん」(それにしてもこの題名、なんとかならんのかな。原題はVoices from the street。平井和正の作品名か?って勘違いしちゃうよ….)。この作品が書かれたのは1951年で、ライ麦畑でつかまえてが出版されたのは1952年。たった1年のタイムラグなので、サリンジャーの影響云々は言い過ぎだとはおもうのだが、抑圧的な社会にいらだつ若者の抵抗と受難という云う大枠が非常に似通っている。

 また1962年に出版された作品「高い城の男」の高い城の男ことホーソンは、実際には高い城には住んでいなかったのだけれど、J・D・サリンジャーは高い塀で囲まれた邸宅(高い城と云うには大げさだが、世間から隔絶された雰囲気)に長年住んでいた。ただ単にサリンジャーのイメージをホーソンに借用しただけなのか、これまで読んできたフィルのインタビューや、評論にはサリンジャーとの関わりなんて話は一言も書いていないので、たぶんオレの思い過ごしだとは思うのだが、なんか気になる。

 それはともかく、Philip K Dickという作家は、主流小説では全く成功せずにその人生を閉じた。オレもこれまで5冊程、彼の主流小説も読んでいるのだが、正直言ってどれもこれもツマラナイ(いやそれらの作品を最後に読んのは20年近く前なので、今読めば面白く読めるのかもしれない)。

これじゃメジャーな出版社は手を出さないわけだ。だからこの「市に虎声あらん」も、出版されるまでにこんなに長い年月が必要とされたんだろう。でも、Philのハードコアなファンは読まずには済ます事は出来ない作品だと言っておく。ああだこうだ翻訳に愚痴を言うくらいなら、英語で読むべきなのだろう。


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